2003年6月4日(水)から29日(日)まで、寺内町センター1階展示室で、富田林市寺内町出身で明治時代の女流歌人・石上露子の生誕120周年を記念して、「石上露子を偲ぶ着物展」が特別開催されました。生前に着用していた幻の訪問着3点が展示・公開されました。濃い紺色の無地生地の訪問着の裾模様は、石上露子自ら金泥を用いて上着には山水、下着には四季の花がそれぞれ描かれています。また、下着には以下の2首の歌も詠まれています。 「かなしけれゆめもうつつもいやはてのさかひにいれる身のここちして」 「わかくるま人のいつこととはむにはおちはのくにとつけてやれかし」 特別展示期間中の6月15日(日)午前11時と午後3時の2回、地元のお住まいで「石上露子を語る集い」代表・芝昇一様による着物の解説も行われました。(注: 寺内町ご訪問者及び富田林市社会教育部文化財保護課より情報提供を、また、寺内町にお住まいの方から写真提供を頂きました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。) |
||
石上露子ゆかりの訪問着 |
両裾に金泥で描かれた絵と自詠の歌 |
|
寺内町センター(1階展示室) |
裾に金泥で詠み込まれた歌2首 |
|
石上露子の本名は杉山孝(たか)といい、明治15年(1882年)に杉山家(現在、重要文化財・旧杉山家住宅)の長女として生まれました。石上露子の遺品であるこの着物(長着)は、訪問服(訪問着)と下着の襲ね一組となっています。訪問服は、女性の略礼服として、明治、大正時代までは、上下かさね一組の紋付として着用されました。当時の模様配置は、この訪問服のように、両褄(りょうづま)模様(長着の裾の左右両端の分に模様がある。)で、後身頃(うしろみごろ)には模様はありませんでした。昭和になると下着を着る風習もだんだんと衰微して、戦後はほとんど見かけることがなくなりました。 現在では、祝儀における女性の最高礼服である黒留袖(くろとめそで)、色留袖にわずかに、比翼としてその名残を留めています。 このように明治、大正時代の様式で作られた露子の訪問着は、表着(うわぎ)と下着(表着と同色の部分)とも、感触、風合い共に優れた一越(ひとこし)の生地が用いられ、上品な濃紺に染め上げられていて、金泥(きんでい)で繊細な模様と短歌が描かれています。 「石上露子集」の著者・松村緑氏は、著作の解説の中で「詩歌の才はもとより自伝には上方舞(かみがたまい)に打ち込んで、その道に自信があったと語られているし、筝(そう)も名手と伝えられるが、私の親しく知り得たのは、その手蹟(しゅせき)の秀麗さと、画技の巧みさとである。」と述べられています。 表着には、山水、下着には四季の草花が、南画風(文人画)に細かく、しかも金一色で光と陰が見事に描き分けられ、表着の裾まわし(八掛)には、上前、下前共に十一の飛鶴(ひかく)が、下着の裾まわしには、上前に十四、下前に十六の飛蝶(ひちょう)が描かれています。紋は、杉山家の家紋である梅鉢を雪輪で囲んだ女紋で、刺繍(ぬい)の三ツ紋が置かれてあります。 また、下着には、下前(向かって右側)おくみより後身頃(あとみごろ)にかけてと、上前(向かって左側)前身頃(まえみごろ)から後身頃にかけて、二首の短歌が散らし書きされています。 下前の短歌は、「かなしけれゆめもうつつもいやはてのさかひにいれる身のここちして」とあり、昭和七年四月に「冬柏(とうはく)」に発表されたものです。 上前の短歌は、「わかくるま人のいつこととはむにはおちはのくにとつけてやれかし」とあり、これは昭和十年十一月「冬柏」に発表されたものです。これより推測すると、この訪問服は昭和十年から十四年頃に制作されたものと考えられます。 松村緑氏が昭和二十三年頃に授業に使う詩華集に「小板橋」を載せるために作者に収録の許可をもらおうと住所を探しましたが、なかなか解りませんでした。最後に、富田林町役場に照会したところ、本宅に帰住しておられるという返信を得て、何回か文通を重ねた末、昭和二十八年五月に初めて富田林に露子を訪ねました。 先生の、その文学に対する真摯な態度に、硬く閉ざしていた露子の心も次第にほぐれ、胸襟を開いてすべてを語った最後に一人が、松村氏であったのでしょう。露子が最も愛した品、薄倖(はっこう)の人が心魂を傾けて制作した品、それがこの訪問着であったのです。 (芝昇一氏主宰 「石上露子を語る集い」会報 小板橋第十七号(平成13年5月発行)掲載文より転写させて頂きました。) |
||
|